杉山神社|ピアノ教室 管理人のつぶやき

by FUKUON



ピアノ教室管理人大八朔聖域紀> 杉山神社

杉山神社 - 西八朔町 (聖域No.04)

▲西八朔になくてはならない杉山神社。 しかし他にも多数の杉山神社が・・・。
ここ横浜市緑区西八朔町のシンボル的存在杉山神社は、神職の方もいない小さな神社です。 木々に囲まれた境内はとても静かで、穏やかな雰囲気が漂っています。バス道の車の音も、ここまではあまり聞こえてきません。 本当に心静まる神聖な空間、という風情です。 夏には盆踊り、秋祭り、年末には餅つき大会、そして初詣。 杉山神社は西八朔の人たちにとって、四季折々の祭事と催事の場でもあります。 そんな人々の憩いの場である西八朔の杉山神社ですが、 実は横浜市には杉山神社と呼ばれる神社がたくさんあります。 横浜市だけでなく、川崎市や東京都稲城市、町田市などにも存在しています。 地図上で確認すると、 鶴見川とその支流流域に数多く分布していて、 多摩川より東と境川より西にはありません。 なぜ、こんなに固まって、 しかも沢山あるのでしょうか?? ここで少し歴史を紐解いてみたいと思います。 ※このページの記事は、管理人個人の調査研究による完全独立した内容ではなく、 数々の情報を参考にし、一連の流れのもとに再構成したものが大半を占めます。 またご紹介している内容は確定的なものではなく、 あくまでもそういう説がある、そう考えられています、といった仮説が含まれていますので、 確定された歴史的事実ではありません。 同時にその歴史的正確性、事実性を一切保障していません。 予めご了承頂いた上でお読みください。

目次

  1. 碑文を読んでみる
  2. 延喜式内社とは?
  3. 杉山神社の起源は?
  4. 杉山神社はなぜこうも多いのか?
  5. どの杉山神社が元祖なの?
  6. 武蔵総社六之宮とは?
  7. で、いったいどんな神様が祀られているの?
  8. まとめ
  9. 杉山神社の主な行事
  10. 謝辞

碑文を読んでみる

▲西八朔杉山神社の改築記念碑。
杉山神社の謎を解くには、 まず碑文を読んでみるのが一番! というわけで、 改築記念碑の写真を見ながら懸命に書き写してみました。 読むのが面倒というお方は、読み飛ばしていただいても結構です。
改築記念 延喜式内社 武蔵総社六之宮 杉山神社 大國魂神社宮司 猿渡盛文拝書
一、祭神 五十猛命 配祀 大日霊貴命、素盞鳴命、大田命
一、由緒当神社は武蔵國の総社、大国魂神社の六ノ宮である。 続日本後紀、承和五年(八三八)二月庚戌の条に武蔵國都筑郡杉山神社預之官幣以霊験也、とある。 さらに同書、承和十五年(八四八)五月庚辰の条にも奉授武蔵国元位杉山名神従五位下とある。 六所宮武蔵國の総社、大国魂神社の成立は、人皇十二代景行天皇四十一年、都筑郡杉山神社は六の宮として西殿に祭られた。 「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座す六所大神等は東御殿に一の宮小野大神、二の宮小河大神、三の宮氷川神社、以上三所鎮座す。 西御殿に四の宮秩父大神、五の宮金佐奈ノ大神、六の宮杉山ノ大神以上三所鎮座す。 件の六所を総称して六所宮と称す。 この六ノ宮に該当する神社が西八朔鎮座の杉山神社である。 「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う、其の文左にのす」武蔵国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領、同村之内、五石六斗事、任先規寄附之訖全可收納、並境内山林竹木諸役等、免除如有来永不可有相違者也、慶安二年(一六四九)八月二十四日、御朱印。 以上の事実によって当神社こそ式内社の由緒深きものである。
一、社格明治六年十二月被列郷社との辞令 神奈川県庁より御下附あり。 大正九年九月十日 神奈川県告示第三六二号を以て神饌幣帛料供進すべき旨同県知事より指定あり。 昭和二十八年八月一日 神奈川県指令第三九九〇号を以って宗教法人杉山神社として同県知事より認証された。
一、社殿境内地 昭和五十七年十一月三日改築 遷宮祭執行。境内地千四百六十三坪
昭和五拾七年拾壱月吉日 杉山神社宮司 志村文雄 撰文謹書
・・・疲れました。orz しかし、謎を解く鍵が最初から登場しています。 延喜式内社がそれです!

延喜式内社とは?

改築記念 延喜式内社 武蔵総社六之宮 杉山神社 大國魂神社宮司 猿渡盛文拝書 : :
改築記念碑の冒頭に現れる“延喜式内社”とはいったい何のことでしょうか?
▲第60代天皇 醍醐天皇 ※この画像はパブリックドメインです。
まず“延喜”とは年号(元号)のことだというのは、何となくわかりますよね。 “延喜”は西暦901年から923年のことで、 この期間は醍醐天皇(885-930)の治世にあたります。 醍醐天皇の治世は後世の人々から延喜の治(えんぎのち)と呼ばれるほど、 天皇を中心とした理想的な政治が行われたそうです。 摂政や関白をおかなかった醍醐天皇でしたが、 太政官筆頭・左大臣藤原時平(871-909)が政治の実権を握っていたと言われています。 (学問の神様として有名な右大臣菅原道真(845-903)を大宰府に左遷したのは、 この藤原時平だそうです。) その藤原時平に対して醍醐天皇はある法典の編纂を命じています。 それが『延喜式』と呼ばれる、律令の補則的な法令集です。 『延喜式』は延喜5年(905)に編纂がスタートしましたが、 一応なんとか完成したのは延長5年(927)で、 そこからさらに手が加えられて、康保4年(967)にやっと施行されました。 藤原時平はスタートして早々の909年に亡くなり (一説には菅原道真公の祟りだとか。くわばら、くわばら・・・)、 時平の弟、藤原忠平(880-949)がその後を引き継いで編纂は続けられました。 実に60年以上におよぶ大編纂作業の末に完成した『延喜式』は全50巻にも及び、 約3300条もの法令が記載されているそうです。 実は物凄い大事業だったんですね! では、そもそも何故そんな長大な法令集が必要だったのか? それは天皇中心の政治を行うためには、各権力者、 特に有力貴族と寺社を抑えこむ必要があったのと、 政治理念として農民を保護し律令制への回帰を志したからと言われています。 長大な『延喜式』の中で、“寺社”を抑えこむ目的に対応しているのが第9巻と第10巻にあたります。 この第9・10巻を「延喜式神名帳」と呼びます。 「延喜式神名帳」には当時「官社」と呼ばれていた、全国の神社一覧が記載されています。 その数2861社。 神様の数は3132座もあるといいます。 この「延喜式神名帳」に名前が記載されるということは、 朝廷に認められたことを意味しますので、とても政治色の強い一覧表だったのです。 そしてこの「延喜式神名帳」に記載されている神社のことを、“延喜式内社” または“式内社”、“式社”というのです! おおっ! ひとつ謎が解けました。 改築記念碑の冒頭に書かれている“延喜式内社”とは、 法令集『延喜式』の「延喜式神名帳」に記載された由緒ある神社 のことなんですね。

杉山神社の起源は?

杉山神社が「延喜式神名帳」に記載されるほど由緒ある神社だとして、 ではその起源はどこにあるのでしょうか?

意外と古い杉山神社の歴史

「延喜式神名帳」には国や郡ごとに神社が記載されています。 そして杉山神社は武蔵国都筑郡の唯一の延喜式内社として記載されています。 武蔵国とは、今の埼玉県と東京都の大部分と、神奈川県の一部のこと。 都筑郡は、現在の横浜市緑区、青葉区、都筑区の全域と、 瀬谷区、旭区、保土ケ谷区、港北区、川崎市麻生区の一部が含まれる地域のことなんです。
▲鳥居から望む本殿。
当時政治の中心は京都(平安京)ですから、 当然のことながら「延喜式神名帳」には都の周辺の神社がたくさん記載されるわけです。 そんな中、都から遠く離れた関東の武蔵国にある杉山神社がわざわざ記載されるということは、大変名誉なことだと言えますし、 同時に、施行された967年当時、すでにそれなりの歴史と格式があったということも意味します。 ではいったい、いつから杉山神社は存在していたのでしょうか?続日本後紀(869)』という平安時代の歴史書に、 枌山神社(すぎやまじんじゃ)という名が登場しているのですが、 実はこれが今の杉山神社だというのです。 「枌山神社=杉山神社」です。 967年に施行された法令集『延喜式』の、 さらに100年も昔の869年に成立した歴史書に名を残すということは、 そこからさらにさらに昔から存在していたことを意味します。 杉山神社は、もの凄い昔からあったんですね!! しかし古い神社の例に漏れず、その由来、建立の経緯ははっきりとしていません。 唯一の手がかりは、別の杉山神社に残されています。 横浜市営地下鉄ブルーラインのセンター南駅近く、 茅ヶ崎町都筑中央公園の中にある杉山神社の神社合祀記録碑がそれです。
茅ヶ崎町杉山神社 神社合祀記録碑 (抜粋) 勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮枌山神社祭神由布津命 傅記云由布津命ハ天日鷲命之孫也 天武天皇白鳳三年九月堅田主命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御霊而奏天朝武蔵國枌山乃國ニ立神籬右大神ヲ奉リ枌山社ト號シ奉ル
要約すると・・・ 「天武天皇治世の白鳳三年(674年)に、 忌部勝麻呂が由布津命(ユフツヌシノミコト)を祭神として枌山社を作った。」 と書かれています。 674年 おおっ!古い古い!! (既に書いたように、枌山社とは杉山神社のことです。) まとめると、 杉山神社は674年に忌部勝麻呂が建立した。 では、杉山神社を建立したという、 忌部勝麻呂とは何者なのでしょう?

忌部氏とは?

忌部氏(いんべ)は、 大和時代から奈良時代にかけて代々神事を司っている有力な一族で、 なんとその祖先は神話の時代まで遡ることができるといい、 忌部氏の始祖はなんと、 天太玉命(アメノフトダマノミコト)と呼ばれる神様なんだそうです。 (もはや史実ではなくなってきました...。) 忌部氏の始祖、天太玉命(アメノフトダマノミコト)は、 日本神話の中でも一番有名な一節「天岩戸」事件に登場します。
▲天岩戸

※この画像はパブリックドメインです。

【天岩戸事件とは】 弟スサノオの乱暴狼藉に怒った姉アマテラス(天照大神)が天岩戸に隠れてしまったために世の中が闇に包まれ災禍が溢れ出しました。 困った八百万の神様たちが集まって対策を協議し、岩戸の前で楽しく大騒ぎした結果、アマテラスが岩戸の扉を開けて出てきた。・・・という事件です。
このとき協議した対策案が上手くいくかどうか占ったのが 忌部氏の始祖である天太玉命(アメノフトダマノミコト)と、 もう御一方、天児屋命(アメノコヤネノミコト)という神様です。 またアマテラスが岩戸の扉を少し開け 「闇に包まれたこの世で、何がそんなに楽しいことがあるのじゃ?」 と問うたところ、 「あなた様より貴い神様が表れたので、みんなで喜んでいるのです。」 と答え、アマテラスの前に鏡(三種の神器の一つ八咫鏡)を置き、 もっと良く見ようとアマテラスが身を乗り出してきます。 このとき鏡を置いたのもまた、 忌部氏の始祖であ天太玉命(アメノフトダマノミコト)と、天児屋命(アメノコヤネノミコト)でした。 このように忌部氏の始祖である天太玉命(アメノフトダマノミコト)は神話上重要な活躍をしており、 しかも占いなど神事に関わっていたのです。 当然その子孫である忌部氏も、 神事に関わる重要なポストを占めていくようになったのです。 まとめると、 674年に杉山神社を建立した忌部勝麻呂の祖先は、 代々神事に関わる一族だった。

忌部氏の勢力拡大

代々神事に関わることで重要なポストを占めた忌部氏一族は、 全国にその勢力を拡大していきます。 ・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)を祖とする阿波国(今の徳島県)の阿波忌部氏。 ・手置帆負命(タオキホオヒノミコト)を祖とする讃岐国(今の香川県)の讃岐忌部氏。 ・彦狭知命(ヒコサシリノミコト)を祖とする紀伊(今の和歌山県)忌部氏。 ・櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)を祖とする出雲国(今の島根県東部)の玉作氏(たまつくりし)。 ・天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)を祖とする筑紫国(今の福岡県)・伊勢国(今の三重県)の忌部氏。 他にも北陸や山陰、山陽などにも忌部氏は広がっていきます。 その中のひとつ、阿波国(あわのくに)の阿波忌部氏が、 阿波国(徳島県)からはるばる、今の千葉県房総半島の南端の地に渡り、 そこにも安房国(あわのくに)と名づけたそうなのです。 徳島の阿波(あわ)と千葉の安房(あわ)です。 安房国に入った忌部氏は、その地にある神社を建立します。 それが今も千葉県館山市にある安房神社であり、 主祭神は当然のこと自分たちの始祖・天太玉命(アメノフトダマノミコト)となっています。 こうして東国にも勢力を拡大した忌部氏ですが、 その中の一人が、枌山神社(すぎやまじんじゃ)を建立したとされる忌部勝麻呂だったのです。 (やったー!!つながったよぉ!!!) ところで、 先ほどの「茅ヶ崎町杉山神社 神社合祀記録碑」を良く見てみると、
茅ヶ崎町杉山神社 神社合祀記録碑 (抜粋) 勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮枌山神社祭神由布津命 傅記云由布津命ハ天日鷲命之孫也 天武天皇白鳳三年九月堅田主命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御霊而奏天朝武蔵國枌山乃國ニ立神籬右大神ヲ奉リ枌山社ト號シ奉ル
忌部勝麻呂は“堅田主命二十代ノ孫”とあります。 この堅田主命とは、 茅ヶ崎町の杉山神社の祭神である由布津命(ユフツヌシノミコト)と、 忌部の始祖である天太玉命(アメノフトダマノミコト)のひ孫の飯長媛命(イイナガヒメノミコト)の間にできた子供だと言われています。 その堅田主命の二十代の孫が、枌山神社を建立した忌部勝麻呂なのです。 どうですか!? 杉山神社の由緒正しさがお分かりになりましたでしょうか!? これだけ由緒正しければ、杉山神社の多くの謎がわかるのももう少しです。 が、・・・しかし

忌部氏の失墜!!

先ほど「天岩戸事件」のことをご紹介しましたが、 その中で忌部氏の始祖・天太玉命(アメノフトダマノミコト)と一緒に占いを行い、 一緒に鏡を置いた神様がいたことを覚えていますでしょうか? 天児屋命(アメノコヤネノミコト)です。
▲菊池容斎画 中臣鎌足

※この画像はパブリックドメインです。

この天児屋命(アメノコヤネノミコト)、 実は「大化の改新(645)」で大活躍した中臣鎌足(614-669)でおなじみ 「中臣氏」の始祖だったのです! 中臣鎌足は後に藤原鎌足となり、 その後隆盛を誇る藤原氏の始まりとなります。 わが世の春を謳歌する藤原氏の中にあっても、 中臣氏の本流は依然として中臣氏を名乗り、 代々神祇官・伊勢神官などを世襲して、神事の中心に存在し続けます。 忌部氏も後に斎部氏を名乗り、 中臣氏と神事の座を巡り勢力争いを続けますが、 あまり情勢は奮わず、次第に表舞台から遠のいて行くようになります。 結局のところ、忌部氏は中臣氏との争いに負けてしまったのです。 歴史の負け組みは、その記録さえ消され、書き換えられて行くのは世の常。 そのため忌部勝麻呂が建立したという枌山神社(=杉山神社)に関する記録も、 失われていったのではないか? と考えられています。 公式記録的な資料が不足していれば、 本当に枌山神社(=杉山神社)は忌部勝麻呂が建立したのかという疑念が残ります。 「茅ヶ崎町杉山神社 神社合祀記録碑」を裏付ける一次資料が足りないのです。 こうして杉山神社の謎の多くは残されたままなのです。 まとめ 杉山神社は674年に忌部勝麻呂が建立らしいが、 その後忌部氏が没落し一次資料が残っていないため、 信憑性に欠ける。 謎は謎のまま・・・。

杉山神社はなぜこうも多いのか?

とはいっても、少ない情報をつなぎ合わせて、アレコレ推理するのが歴史の醍醐味。 管理人の高校の日本史の先生もこう話していました。 「歴史とは丸暗記する学問ではなく、色々な資料や状況証拠を基に推理する学問だ。」と。 うーん、その通り! さて、 杉山神社の由来については確定はしていないものの、 なんとなく見えてきモノがあると思います。 しかしまだ大きな謎があります。 その一つが「どうしてこうも杉山神社が多いのか!?」です。

いったい何社あるのかねぇ?

「新編武蔵風土記稿」と呼ばれる江戸時代に書かれた書物によれば、 当時の武蔵国には、 都筑郡に24社 橘樹郡に37社 久良岐郡に5社 南多摩郡に6社 合計72社もの杉山神社があるとされています。 どえらい数です、ホント。

なぜこうも増殖しまくってしまったのか?

▲西八朔杉山神社の秋のみこし祭りの様子
なぜこうも増殖しまくってしまったのでしょうか? 一説によると「延喜式神名帳」に式内社として記載されたことでがつき、それにあやかり各地に建立されていったのではないか、と言われています。 ということは、 「延喜式神名帳」が施行された康保4年(967)以降に 増えてしまったのではないでしょうか?? 「オラたちの村さにも、ぜひぃありがてぇ杉山神社様をおねげぇしますだぁ。」
▲西八朔囃子保存会の皆さんによる、お囃子の様子。
というわけで、どんどんその霊験あらたかなご威光が、近隣に広がっていったのではないかと思われます。 帝のお墨付きのありがたい神社ができれば、お参りすることも、願い事をすることも、お祭りをすることもできます。 こうやって広がることを勧請(かんじょう)とか分祀(ぶんし)、分霊(ぶんれい)などと言います。 神道における神様はどれだけ分け与えてもそのご威光は減ることはない、 とされているんです。 だから増えること増えること。 おそらく新たに杉山神社が分祀建立された地元の人たちは、大いに喜んだことでしょう。 「オラが村さにも、杉山様が来てくだすっただ!!」って。 まとめ 「延喜式神名帳」に記載されて箔がつき、 それにあやかって次々と杉山神社が増えていった、と思われる。 しかし、 これがまたあらたな謎を作り出してしまいます。

どの杉山神社が元祖なの?

ってなります。 当然ですよね、やっぱり。

増えすぎて分からない

▲なかなか立派な狛犬も。
これだけ増えてしまい、しかも一次資料がないとなると、 どれが本物(=本祠)の杉山神社だかわかりません。 「延喜式神名帳」編纂時には、こんなに増えることは想定してなかったんでしょうね。 都のお役人さんたちもビックリ仰天です。 もともと式内社として記載されたときは、 どの神社のことなのかハッキリしていたはずです。 でなければ「これだ!」とは記載できないでしょうから。 ってことは、本物の杉山神社があるはずなんです、どこかに。

深まる混乱

では、いったいどれが式内社として記載された 本物の杉山神社なのでしょうか!? それぞれの杉山神社が、 それぞれに由緒ある神社だということを碑文などで伝えています。 しかしその碑文も建立当時のものではなく、 後世になって“そうだったらしい”と書いているに過ぎません。 どれも決定的な確証がないんです。 そしてさらに、 もっと混乱を招くような出来事が、歴史上何度か起こります。 まず普通に廃社されてしまう神社もあったことでしょう。 神職の後継者が絶えたり、災害や戦乱で燃え落ちてしまったり、 氏子がいなくなったり・・・。 そんなこんなで、自然となくなってしまう神社もあったと思います。 さらに、神社と神社が合併(合祀)してしまうこともあったでしょうね。 そして合併して時間がたつと、 どちらがどうだったのかが曖昧になってしまうことは、容易に想像できます。 合併した挙句に廃社とか。。。 そして合併は神社同士とは限りません。 日本の歴史上「神仏習合」として知られるように、 神社とお寺が合併していきます。 神様と仏様が一緒くた、です。 はい、 もう分からなくなって当然ですよね。 さらに明治時代になると、 神仏分離令といって、 政府の意向により神社とお寺が分離させられます。 さらにさらに! 明治末期になると神社合祀令が出され、 神社と神社が急速に合体していきます。 一つの区域に対して神社は一つ。 つまり神社の整理が行われたのです。 そして近・現代になると、 区画整理や再開発事業による移転もあったことでしょう・・・。 くっ付いて、離れて、またくっ付いて、 整理して、廃れて、移転して・・・。 ここまでくると、もうわけがわかりません。 全てを統べる記録でもがみつからない限り、 本祠の杉山神社が特定されることはないのかもしれません。 まとめ 長い歴史の混乱の中で、どれが本物の杉山神社なのかわからなくなってしまった。 でも、 それじゃお話になりませんね。

もしかしたらここかな?

史家や研究者の方々の努力の結果、 いくつかの杉山神社が本祠の候補として考えられています。 この候補の神社のことを論社と言います。 諸説はイロイロあるものの、 現在杉山神社の論社として考えられているのは以下の通りです。 杉山神社 緑区西八朔町208 杉山神社 都筑区茅ケ崎町2094 杉山神社 都筑区中川6-1-1 杉山神社 都筑区勝田町1231 杉山神社 都筑区大熊町497 杉山神社 保土ケ谷区星川1ー19ー1 杉山神社 港北区新吉田町4509 杉山神社 港北区岸根町377 杉山神社 港北区新羽町2576 杉山神社 西区中央1-13-1 鶴見神社 鶴見区鶴見中央1-14-1 おお!西八朔の杉山神社も!!! もともと杉山神社は都筑郡唯一の式内社として「延喜式神名帳」に記載されています。 都筑郡は今の横浜緑区、青葉区、都筑区の全域と、 瀬谷区、旭区、保土ケ谷区、港北区、川崎市麻生区の一部ですから、 西区の杉山神社はどうなのでしょうか? また鶴見神社の鶴見区もまた都筑郡ではありませんでした。 しかし鶴見神社は昔は“杉山大明神”と呼ばれていたそうですので、 論社として考えられているそうです。 結局、いくつかの論社に絞ることはできるものの、 やはり決定的な確証を得ることができない、ってことですよね。 まとめ いくつかの論社に絞られるが、まだどれが本物の杉山神社なのか、結論は出ていない。 まあ、 このページはどれが本当の杉山神社なのかを見極めるのが目的ではありませんので、 そろそろ西八朔の杉山神社に話を戻したいと思います。

武蔵総社六之宮とは?

冒頭にご紹介した西八朔杉山神社の改築記念碑の碑文のはじめに、 こう書いてあります。
延喜式内社 武蔵総社六之宮 杉山神社 大國魂神社宮司 猿渡盛文拝書
赤文字の「武蔵総社六之宮」から、 西八朔の杉山神社は、 武蔵総社と呼ばれるおそらく大きな神社の6番目の宮、 という意味が読み取れますよね。 ん、武蔵総社って?

武蔵総社とはどの神社?

では武蔵総社とはどの神社のことでしょうか? 答えは碑文の該当箇所のすぐ近くに書いてありました。
延喜式内社 武蔵総社六之宮 杉山神社 大國魂神社宮司 猿渡盛文拝書
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)です。 東京都府中市にある大國魂神社は、 景行天皇(けいこうてんのう)の治世41年に建立されたと言われています。 景行天皇は『古事記』や『日本書紀』に記載されている第12代天皇で、 存命期間はその前の第11代垂仁天皇の治世17年目から 景行天皇自身の治世60年(130)までとされています。 日本武尊(ヤマトタケル)の父とされる景行天皇ですが、 やはり実在性については疑問もあるそうです。 その景行天皇41年に建立された大國魂神社は、 記紀の記述をそのまま受け取るならば、西暦111年に創建されたことになります。 西暦111年前後といえば、 ローマ帝国の勢力図が最大になり、 中国では後漢で宦官が勢力をふるっていた頃。 日本にはまだ邪馬台国も成立していません。 そんな頃に大國魂神社が建立されたなんて、ちょっと考え難いですよね。 もし景行天皇が本当に実在した場合は、4世紀前半だと考えられています。 実際、大國魂神社が武蔵総社となるのは西暦645年(大化元年)ですので、 4世紀前半に建立されたと考えるのが自然だと思います。

総社って何?

4世紀前半に建立され、大化元年(645)に武蔵総社となった大國魂神社。 では武蔵総社とは? 武蔵総社の武蔵とは、 既述したように「武蔵国」、今の埼玉県と東京都の大部分と、神奈川県の一部のことです。 ここが律令時代から「武蔵国」と呼ばれていたわけです。 大國魂神社はその武蔵国の総社となるわけですが、 総社とはどういう意味があるものなのでしょうか? 大昔、古代日本では都の大和政権から、地方の支配地域へ国司が派遣されていました。 国司は赴任地で絶大な権力を与えられ、行政・司法・軍事・祭祀などを司り、 またその地方の豪族たちを抑え大和政権の支配を支えていたのです。 その国司が赴任地に着任後すぐに行っていたのが、 その国にある全ての神社を巡って参拝すること。 その国を支配するにはまず、その国の神々に挨拶することが必要だったのです。 政教一致の時代ですから、当然といえば当然なことですし、 まあ今でも何となくわかります。 引っ越したら、近くの神社やお寺へお参りする方もいらっしゃることでしょう。 礼儀、ですよね?? しかし、これが結構重労働だったのです。 交通機関もなく、道路も整備されていない地方のこと。 全部の神社をつつがなく参拝してまわるのは、 骨の折れる大変な仕事だったことでしょう。 下手したら、山賊なんかに襲われなくもありません。 そこで国司の人たちは考えたわけですね。 1箇所の参拝で、全部まわったことにならないか、と。 どうせだったら役所の近くで済ませたい、と。 そんな国司の方々の希望を叶えるべく、 その国の神社で祀られている神様を全部一同に集めて、 お役所近くの一つの神社に祀ったのが総社なのです。 武蔵国では大國魂神社が総社となり、 国司が政務を行う役所もその総社の敷地内に設置されたんですね。

六之宮とは?

そんな武蔵国の総社、大國魂神社。 では碑文にもある大國魂神社の六之宮とはどういうことでしょうか? 大國魂神社には武蔵国の総社として、六つの神社の神様が祀られて(合祀)いて、 それぞれ一之宮から六之宮と呼ばれています。
一之宮 小野神社 東京都多摩市一ノ宮一丁目・府中市住吉町
二之宮 二宮神社 東京都あきる野市二宮
三之宮 氷川神社 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町四丁目
四之宮 秩父神社 埼玉県秩父市番場町
五之宮 金鑚神社 埼玉県児玉郡神川町二ノ宮
六之宮 杉山神社 神奈川県横浜市緑区西八朔町
戦国時代以降、それまで三之宮だった氷川神社も一之宮となり、 その場合五之宮だった金鑚神社が二之宮になりました。 なので金鑚神社の住所に二ノ宮が入っているのでしょうね。 西八朔杉山神社の改築記念碑文では
「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座す六所大神等は東御殿に一の宮小野大神二の宮小河大神三の宮氷川神社、以上三所鎮座す。 西御殿に四の宮秩父大神五の宮金佐奈ノ大神六の宮杉山ノ大神以上三所鎮座す。 件の六所を総称して六所宮と称す。 (※二の宮小河大神とは二宮神社の主祭神のこと。 また五の宮金佐奈ノ大神とは金鑚神社の主祭神のこと。)
と書かれています。 一之宮はその地方で一番格式が高い神社が選ばれれ、 また一之宮から六之宮の神社は当然「延喜式神名帳」に記載されている神社となります。 当時の国司たちは一之宮から順番に参拝していったと考えられてますから、 武蔵国では六之宮である杉山神社が最後に参拝されていたのでしょう。 いづれにしても六之宮に選ばれた杉山神社は、かなり誉れ高いことなんですね。

六之宮の杉山神社とは西八朔なのか?

さて杉山神社は武蔵国の六之宮なのですが、 すでに書いてきたとおり、 杉山神社は沢山あってどの杉山神社が本祠なのか分かっていません。 はたして武蔵国の総社大國魂神社の六之宮は、 西八朔の杉山神社なのでしょうか?? もちろんこれには様々な説がありますし、 「延喜式神名帳」に記載された式内社としての杉山神社はどれか? という問題と全く同じです。 「延喜式神名帳」記載の式内社としての杉山神社 = 武蔵総社大國魂神社の六之宮 ということになります。 当然ながら確定的なことは言えないわけなんですが、 西八朔杉山神社の改築記念碑文には 「ここがそうなんだ!」 「西八朔の杉山神社こそが武蔵国の六之宮なんだ!」 と言い切った人の名前が書いてあります。
延喜式内社 武蔵総社六之宮 杉山神社 大國魂神社宮司 猿渡盛文拝書
武蔵総社大國魂神社の宮司、猿渡盛文さんです。 猿渡盛文さんは神社本庁長老であり大國魂神社名誉宮司でもあるのですが、 2003年に永眠されています。関連記事 う〜ん 真実はまたしても闇の中か? しかしもっと昔に、 西八朔杉山神社が式内社であり、武蔵総社六之宮だと言い出した人がいたんです。 江戸時代後期の国学者であり大國魂神社宮司の猿渡盛章(1790-1863)です。 (ややこしやぁ〜〜) 猿渡盛章は天保元年(1830)に自書『新撰総社伝記考証』の中でこう書いているそうです。 「西八朔村なる神社は、未だ誰ひとり実蹟といへる人もなけれど、 盛章が考になかなかに茅ヶ崎、吉田などの神社にはまさりて、故あるべく覚ゆ」 つまり 「なんとなく由緒正しい神社のような気がする」と 述べているわけなんです。 う・・・ん チョイ弱いかな・・・。 しかし西八朔杉山神社の改築記念碑文には、 六之宮である根拠としてこう書いてあります。
続日本後紀、承和五年(八三八)二月庚戌の条に武蔵國都筑郡杉山神社預之官幣以霊験也、とある。 さらに同書、承和十五年(八四八)五月庚辰の条にも奉授武蔵国元位杉山名神従五位下とある。 (中略) 「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う、其の文左にのす」武蔵国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領、同村之内、五石六斗事、任先規寄附之訖全可收納、並境内山林竹木諸役等、免除如有来永不可有相違者也、慶安二年(一六四九)八月二十四日、御朱印
プチ訳すると・・・ 続日本後紀の承和五年(838)二月の箇所に、 杉山神社が霊験あらたかなので官幣となった。と書いてある。 さらに承和十五年(848)五月には従五位下という位を授かった。と書いてある。 風土記稿に慶安二年(1649)に幕府より御朱印を頂いている。と書いてある。 となります。 太字部分を解説すると、 続日本後紀とは平安時代の869年に成立された歴史書。 官幣とは神社の社格のことで、 神祇官より直接奉幣(捧げ物)を受けることができる神社です。 神祇官はかなり高位の官職で、通常あまり地方の神社まで出向いて行きません。 でも官幣となれば、地方の神社であっても重要とみなされるので、 神祇官が直接出向いて来てくれます。 だから官幣になるということは凄いことなのです。 ちなみに官幣とは別に国幣というものがあり、 こちらは赴任してきた国司から奉幣を受けます。 従五位下とは朝廷より授かった位階のことで、 従五位下以上が貴族に属します。 ですから杉山神社は貴族の位を頂いたことになります。 こちらも凄くないでしょうか?? 風土記稿とは新編武蔵風土記稿のことで、 文化・文政期(1804-1829)に編纂された武蔵国に関する書物です。 そして幕府より頂いた御朱印とは・・・ 御朱印は通常神社でいただける印のことですが、 この場合はちょっと違うと思います。 御朱印ではなく朱印状だと解釈したほうがスッキリします。 。 戦国大名や豊臣政権によって神社や寺院の所有地は削りとられてきましたが、 江戸幕府によって一部が返還され、その土地を保障されました。 場合によっては幕府や大名から寄進を受けることもあったそうです。 その時発行されるのが朱印状なのです。 (大名が発行するのは黒印状) おそらくその朱印状の内容が碑文にある、
武蔵国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領、同村之内、五石六斗事、任先規寄附之訖全可收納、並境内山林竹木諸役等、免除如有来永不可有相違者也
の部分ではないかと思います。 猿渡盛章はこれら続日本後紀や新編武蔵風土記稿の記述から、 ここ西八朔の杉山神社こそが由緒ある式内社であり、 武蔵総社六之宮だと考えたのでしょうね。 武蔵総社大國魂神社の六之宮 = 「延喜式神名帳」記載の式内社としての杉山神社 つまり西八朔の杉山神社こそが、本家本元の杉山神社だと! しかし、 それでも諸説紛糾しているわけですから、これすら決定的な証拠ではないのでしょう。 他の杉山神社にもそれぞれ、 「これは!」と思わせる根拠があるのかもしれません。 ま、いずれにしても、 武蔵総社大國魂神社の宮司さんが、 西八朔の杉山神社を六之宮だと認めたことには違いありません。 それが式内社、つまり本家であるかどうかは別なんでしょうけど・・・。 まとめ 西八朔の杉山神社は、武蔵総社大國魂神社の六之宮だと認められているし、その可能性は高いが、イコール「延喜式神名帳」記載の式内社としての本来の杉山神社といえるかどうかは微妙。

で、いったいどんな神様が祀られているの?

さてここまで杉山神社の歴史や由来、社格などを碑文を中心に見てきました。 式内社で武蔵総社六之宮、という可能性がある西八朔の杉山神社。 その霊験あらたかな西八朔の杉山神社には、 いったいどんな神様が祀られているのでしょうか? これもしっかり碑文に書いてあります。
一、祭神 五十猛命 配祀 大日霊貴命、素盞鳴命、大田命

主祭神 五十猛命とは?

碑文にあるとおり、 西八朔杉山神社の主祭神は五十猛命(イソタケル)です。 磯野タケルではありません、 イソタケルです。w 西八朔杉山神社の主祭神である五十猛命(イソタケル)は、 『日本書紀』や『先代旧事本紀』に登場する神様です。 素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子であり、 妹に大屋都比賣神(オオヤツヒメ/姉)と抓津姫神(ツマツヒメ/妹)がいます。

素戔嗚尊親子の物語

▲歌川国芳画 素戔嗚尊(スサノオノミコト)※この画像はパブリックドメインです。
天岩戸事件の後、高天原を追放された素戔嗚尊(スサノオノミコト)とその子五十猛命(イソタケル)は、 新天地を求めて新羅(シラギ / 古代朝鮮半島南東部にあった国家)の曽尸茂梨(そしもり)という所へと降りて(天降り)行きました。 でも父である素戔嗚尊(スサノオノミコト)がこの地をあまり気に入らなかったため、 埴土(はにつち / 粘土質の土)で舟を作って、親子共々出雲(イズモ / 島根県東部)斐伊川(ひいかわ)の川上、鳥上峯(船通山のこと)へとやって来たんです。 (※出雲の伝説によると・・・、 上陸した地は出雲に近い石見国・五十猛の海岸だと言われています。五十猛は島根県大田市の地名として残っています。) この時、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は有名な八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、 その腹の中から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、つまり草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたと言います。 八岐大蛇((ヤマタノオロチ)とは、たびたび氾濫を起こしていた斐伊川(ひいかわ)のことではないか、と考えられています。 さて出雲を大変気に入った素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、 この出雲の地に宮を築きます。 息子の五十猛命(イソタケル)は、 高天原からの天降りの際、樹木の種を沢山持ってきていたのですが、 最初の地である新羅では植えませんでした。 しかし出雲に至って宮を作ることになったので、その樹木の種を植えたんです。 それは出雲だけにとどまらず、九州をはじめ本州や四国の広がり、 大八洲国(ヤシマコク / 日本中)が森林で満たされ、青山に被われた国になったといいます。 別の説によると 素戔嗚尊(スサノオノミコト)の抜いた体毛から、 それぞれ樹木が生じたとされることもあります。 髭から杉、胸毛から檜、尻毛から艨A眉毛から楠、という具合です。 これを五十猛命(イソタケル)と妹たち、 大屋都比賣神(オオヤツヒメ)と抓津姫神(ツマツヒメ)とで全国に植えていった、 とも言われています。 いずれにしても 素戔嗚尊(スサノオノミコト)と五十猛命(イソタケル)、妹たちによって、 日本は豊かな森林に覆われることになっていったのでした。

五十猛命と西八朔杉山神社

▲木立に囲まれた西八朔の杉山神社。樹木の神様、五十猛命のイメージにぴったり?
その後五十猛命(イソタケル)たち一家は、 紀国(和歌山県)に渡って行ったといいます。 そのため紀国は古来より樹木の産地となったそうなんです。 こうして五十猛命(イソタケル)は樹木の神、植林の神、林業の守護神となり、紀国を中心に祀られていくことになります。 では何故、西八朔の杉山神社の主祭神になったのでしょう。 それは杉山神社の「杉山」と、 五十猛命(イソタケル)の樹木の神という一面が結びついた、 というのが一般的な説なんだそうです。

他の配祀について

西八朔の杉山神社には、主祭神の五十猛命(イソタケル)以外にも、祀ってある神様がいます。
一、祭神 五十猛命 配祀 大日霊貴命、素盞鳴命、大田命
それが配祀として書かれている、大日霊貴命、素盞鳴命、大田命の三柱です。 (※三柱・・・神様を数えるときは一柱、二柱、三柱というように“柱”を使います。) 大日霊貴命(オオヒルメノムチノカミ) 日本神話でお馴染み天照大神(アマテラスオオミカミ)の別名が、 大日霊貴命(オオヒルメノムチノカミ)なんです。 天照大神(アマテラスオオミカミ)は太陽を神格化した存在なんですよね。 素盞鳴命(スサノオノミコト) 言わずと知れた五十猛命(イソタケル)の父です。 同時に天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟でもあります。 西八朔杉山神社の主祭神・五十猛命(イソタケル)、その父である素盞鳴命(スサノオノミコト)、 そして叔母である天照大神(アマテラスオオミカミ)。 この三柱は血縁関係にあります。(神様に血縁があるとしたならば、ですが。) でも、配祀の最後の一柱、大田命はちょっと違います。

大田命の物語

大田命(オオタノミコト)の祖先は猿田彦命(サルタヒコ)と言います。 三重県伊勢市宇治浦田には猿田彦神社があったり、 手塚治虫先生の漫画「火の鳥」でなじみのある方も多いでしょうね。 ちょっと神話の世界へ戻ります・・・ 天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受け、 人間の住む国である葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)を統治するため、 神々の住む国である高天原(たかまがはら)から降って来た(天孫降臨)瓊々杵尊(ニニギノミコト)。 その瓊々杵尊(ニニギノミコト)を、 高天原から葦原中国までを明るく照らして案内したのが猿田彦命(サルタヒコ)です。 猿田彦命(サルタヒコ)は手塚先生が描いたように、 大きな鼻が特徴的な、国津神(くにつかみ)です。 国津神(くにつかみ)とは地に現れた神、すなわち地方神のようなものです。 その反対は天津神(あまつかみ)といって、 高天原(たかまがはら)に住む神々と天孫降臨してきた神々です。 さて無事に瓊々杵尊(ニニギノミコト)の案内を済ませた猿田彦命(サルタヒコ)は、 故郷である伊勢の五十鈴川(いすずがわ)へと帰っていきました。 五十鈴川は、いすゞ自動車の社名の由来ともなり、伊勢神宮の西端を流れている川です。 それから時代が下り、 第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の第4皇女倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、 天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀るのに相応しい地を探していたときに道案内したのが、 猿田彦命(サルタヒコ)の子孫である大田命(オオタノミコト)だったのです。 大田命(オオタノミコト)は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に五十鈴川(いすずがわ)一帯を献上し、 その地をいたく気に入った倭姫命(ヤマトヒメノミコト)は、 そこに天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀ったといいます。 それが今の伊勢神宮となっていったのです。 これらの故事から、 猿田彦命(サルタヒコ)とその子孫大田命(オオタノミコト)は、 導きの神様、旅の神様としての性格が与えられていったのではないでしょうか。 集落の境に建てられ、旅の安全を祈る道祖神を、 猿田彦命(サルタヒコ)と同一視するという考えもあるそうです。 そんなわけで、 西八朔の杉山神社の配祀、大田命(オオタノミコト)は、 旅人の安全を見守る神様としての一面と、 主祭神の五十猛命(イソタケル)とその父素盞鳴命(スサノオノミコト)、 そして叔母である天照大神(アマテラスオオミカミ)を導くという、 そんな役割をもった地神として、祀られているのではないでしょうか。 そんな風に感じます。

まとめ

いかがでしたでしょうか? 杉山神社の謎とロマンを感じていただけましたでしょうか? ではここで大まとめをしておきたいと思います。

杉山神社の由来と増えた理由

代々神事に関わる一族だった忌部氏の忌部勝麻呂によって、 西暦647年に建立された(らしい)。 (しかしその後、中臣氏との勢力争いに負けて忌部氏が没落したため、 信頼のおける一次資料が残っていない。) 967年に施行された法令集『延喜式』の「延喜式神名帳」に記載され、 由緒ある神社として認められた。 (その後、上記にあやかって、周辺に杉山神社が増えていったと思われる。)

西八朔の杉山神社の由来

4世紀前半に建立された大國魂神社が西暦645年に武蔵総社となり、 西八朔の杉山神社がその六之宮であると認められている。 しかし西八朔の杉山神社が、 「延喜式神名帳」に記載された杉山神社といえるかどうかは確定できていない。

本来の杉山神社はどれか?

長い歴史の混乱の中で、どれが本物の杉山神社なのかわからなくなってしまった。 (忌部氏没落のための資料不足も影響しているかもしれない。) いくつかの論社に絞られるものの、 どれが本物の杉山神社なのか、未だ結論は出ていない。 つまり、まだ謎とロマンが楽しめるということですよね!

杉山神社の主な行事

祭 礼

▲お祭りのときに開く本殿。
歳旦祭(さいたんさい)1月1日 例大祭(れいたいさい)10月1日 新嘗祭(にいなめさい)11月23日 大祓(おおばらい)12月22日

謝辞

この記事は到底管理人ひとりで調査し、記述できるようなものではありませんでした。 記事を書くにあたり、 いくつかのサイト様を参考にさせて頂いた事をここにご報告し、お礼を申し上げます。 せめてものお礼に以下リンクを設置させて頂きます。 読者の皆様も、是非一度下記のサイト様をご訪問ください。 この記事が杉山神社への興味、ロマン、 謎の解明に少しでも繋がるのならば、望外の幸せです。
▲今も様々な謎とロマンで多くの人を魅了する杉山神社。
杉山神社 神々の宴(リンク切れ) 猿田彦土中神社 杉山神社巡り Leyline Hunting 伊勢と第一行 神奈川県神社庁 あかね台.net 社家の姓氏-忌部氏- Wikipedia
【杉山神社(西八朔町)】への行きかた
東急青葉台駅、JR横浜線中山駅からバス「青90系統」に乗り「宮前」下車
徒歩約2分

▼この記事へのリンク

<以前の記事へ大八朔聖域紀トップ新しい記事へ>

ピアノ教室管理人トップ


▲ページTOPへ▲