楽器メーカーが浜松市に集中しているのはナゼ?
ヤマハ、カワイ、ローランド、鈴木楽器。大手の楽器メーカーって浜松市に集中しているんですよね。ピアノ教室という音楽教育の末席に身を置く者としては、浜松市には足を向けて寝られません。でも前々から疑問に思ってたんで、この際いろいろ調べてみました。
ども、ピアノ教室管理人です。
今日は前々から疑問に思っていたこの問題について、まとめてみようと思います。
そう、なぜ浜松市には楽器メーカーの本店が多いのか!? です。^^;
以前にもコメントがあった通り、浜松市には大手楽器メーカーの本社が、これでもかと言わんばかりにひしめき合ってるんですよね〜。
と、そうそうたる顔ぶれです。
ピアノ教室という音楽教育の末席に身を置く者としては、浜松市には足を向けて寝られません。まさに楽器の聖地。
なぜこんなに浜松に一極集中しちゃってるのか? その源流はやはりヤマハさんにありました。
……って語りだすと、大河ドラマになるくらいのボリュームになっちゃうので、手短に、ごく簡単にご紹介しますね。^^;
時は1851年(嘉永4年)。
紀州藩士山葉孝之助の三男として生まれたのは、後のヤマハ創業者である山葉寅楠(やまは とらくす)。
その2年後、浦賀にペリー提督率いる黒船が来航し、世の中が大きく動き出そうとする、そんな時代です。
幼いときから機械好きだった寅楠は、20歳のころ長崎に出てイギリス人から時計修理の技術を学び、さらに大阪の医療器具店で修理工として働きます。
その後浜松支店に移り、機械全般の修理を請け負うようになり、1887年、浜松尋常小学校からの依頼でオルガンを修理したことをキッカケに、翌年に日本初のオルガン製造に成功※。
※のちに合併する西川オルガンの創業者、西川寅吉が最初だとする見解もあります。
参考:十字屋楽器店刊『手風琴独まなび』の表紙
そして1889年(明治22年)、合資会社山葉風琴製造所を設立(風琴とはオルガンのこと)。
実はこのとき、のちの河合楽器の創業者である河合小市(かわい こいち)が、山葉寅楠の元に弟子入りしているとは、なんという歴史の不思議でしょう。
当時わずか10歳だったにもかかわらず、機械いじりの天才として評判だった小市は寅楠に気に入られ、次から次にオルガン技術を伝授されることに。
山葉風琴製造所は2年後に解散したものの、1891年に山葉楽器製造所を設立。
さらに1897年(明治30年)、日本楽器製造株式会社に改組し、これがのちのヤマハへとつながっていくことに。
一方、いまだ11歳の少年だった河合小市は、研究室長のようなポジションを与えられたそうであります。(って、どんだけ天才なん!?)
日本楽器は順調に業績を伸ばし、河合小市も技術者として腕をふるっていくのでしたが……。
1916年(大正5年)山葉寅楠が他界。
後任の2代目社長はしっかりと寅楠の遺志を引き継ぎ、「会社の至宝河合小市君に対しては、十分な処遇をする」として、技術製造部門の最高責任者へと昇進。
さらに楽器製造の技を磨き、日本楽器製造社の発展と日本の音楽産業に大きく貢献していくように思われました。
ところが1926年4月、大規模な労働争議が勃発!
参考:日本における第1回メーデーの様子(1920年5月2日)
従業員の待遇改善を求めたこの争議(日本楽器争議※)は、かなり大規模かつ暴力的だったため、楽器生産はストップ。会社は大打撃を受け、350名もの解雇者を出した末、2代目社長は辞任してしまいます。
再建のために外部の住友電線(現 住友電工)から社長を招き、財閥の資金力を背景とした経営合理化に舵を切ることに。
その経営方針はしかし、河合小市ら技術者にはなじめず、遂に日本楽器を去っていくことになってしまうのでした。
1927年(昭和2年)、河合小市を中心とした技術者7人で、浜松市に河合楽器研究所(1929年に河合楽器製作所)を設立。
そしてこのとき、浜松市に2大楽器メーカーが並び立ったんですね。
河合小市ら技術者離脱後の日本楽器は経営を再建し、同じ浜松市に拠点を構える河合楽器と共に、(紆余曲折はあるものの)順調に業績を伸ばしていきます。
一方、楽器製造の世界にあがる産声は、まだまだ続きます。
時代は少し下って1938年。ハーモニカ好きの少年が河合楽器製作所へ入社してきます。
鈴木萬司(すずき・まんじ)、当時まだ15歳だった少年は、河合楽器でハーモニカ製造のすべてを学びます。
太平洋戦争で海軍へ入隊せざるを得なかった鈴木萬司でしたが、終戦後の1945年、河合楽器に復帰。再び楽器製造に打ち込みます。
やがて自分の理想とするハーモニカを追い求め、河合楽器を退社。1953年、浜松市に鈴木楽器製作所を創業することに。
小学校の音楽授業におけるハーモニカの採用、それにつづく鍵盤ハーモニカ「メロディオン」によって、教育楽器メーカーとして確固たる地位を築いていくことになります。
幼くして両親を亡くした梯 郁太郎(かけはし いくたろう)少年は、終戦後に移住した宮崎で「かけはし腕時計店」を開業。なんとこのとき16歳。独学で学んだ時計とラジオの修理を請け負います。
大学受験のために店をたたみ、単身乗り込んだ大阪で結核を患い入院。入院費や食費を稼ぐために、病床で時計やラジオの修理をおこない、テレビまで自作したそうです。
奇跡的に回復したのち、大阪でカケハシ無線を開業。オルガンに興味を持ちはじめ、電子回路を用いたオルガン製作に取り組みます。
1960年に阪田商会(現 サカタインクス株式会社)の出資を得てエース電子工業株式会社を設立。電子オルガン第一号は、初代テクニトーンとしてナショナル(現パナソニック)から販売されます。
ところが阪田商会の経営悪化から、エース電子は住友化学に買収。音楽や楽器製造に理解のない経営陣との対立からエース電子を退社。そして1972年、大阪でローランドを設立します。
翌73年には浜松市に工場を設立。本社は長らく大阪のままでしたが、2005年7月、ついに本社も浜松に移転します。
ギターやベースのエフェクターメーカーとして、ユーザーの信頼を集めているボス(BOSS)は、1973年大阪で設立されたメグ電子株式会社を前身とします。
長年ローランドのグループ会社(子会社)として、エフェクターの製造を担ってきましたが、2018年に親会社のローランドに吸収合併。エフェクター等関連商品のブランドとして残っています。
設立時からローランドの子会社であったのかは、ちょっとわかりませんでしたが、ローランドと共に浜松市を所在地としています。
1934年(昭和9年)、静岡県の掛塚町(後に竜洋町→磐田市)に小さな楽器製造工場が建ちます。名前を三洋楽器、創業者は石川隆己(いしかわ たかみ)。
船大工の家の出である石川隆己は、約10年間、日本楽器(後のヤマハ)と河合楽器でピアノ製造技術を学んだ後、この三洋楽器を設立。終戦の間際まで操業していたといいます。
終戦後の1947年1月。中島飛行機の教官であった大谷藤四郎を財務担当の副社長として迎え、東洋楽器※製作所としてピアノの製造を開始。翌1948年、浜松市に東洋ピアノ製造株式会社を設立します。
※ヴァイオリンケースの東洋楽器とは無関係。
戦後の混乱期には物資の調達に苦労が絶えなかったものの、厳格な技術者であった石川隆己の号令一下、同社主力製品となる「アポロピアノ」を優れたブランドとして育て上げます。
特に世界で最もグランドピアノに近いアップライトピアノ
※と呼ばれるSSS※機構を搭載した機種は、グランドピアノ同等の最大13回/秒の打弦回数とハンマーシフト機能を実現し、高い技術力を誇っています。
こうして見ていくと、やはりヤマハとカワイの存在が大きいですよね。両者の歴史は創業者レベルでクロスしてますから。
山葉寅楠が浜松市で日本楽器製造株式会社を起こし、弟子の河合小市が河合楽器を設立。その河合楽器で学んだ鈴木萬司が鈴木楽器製作所を作り、大阪で生まれたローランドもやがて浜松へと。
また節目節目で住友系企業が関与しているのも面白いところです。
なお日本楽器製造株式会社は、1987年に創業100周年を記念して、社名をヤマハ株式会社に変更しています。それまではヤマハはブランド名だったんですね。
浜松市に楽器メーカーが集中しているのは、まあ歴史的な経緯もあるんでしょうけど、本社機能や工場、各拠点が集中していることで、生産効率が上がるというのもあるんでしょう。
関連業者も集中するでしょうしね。
なんかアメリカのシリコンバレーみたいで、意外とカッコイイかも!
Sumireさん
ヤマハとカワイにそんな歴史があったんですね!
知りませんでした〜ありがとうございます!
河合小市…気になりますね!
[ためになった]
管理人
>河合小市…気になりますね!
ですよね!^^
どんだけ天才少年だったのか、気になるところですよね〜。
ダムダム人さん
よくお調べになられましたね!
色々と勉強になりました。
ところでMIDIと言う規格をご存知でしょうか?
以前はヤマハとローランドのデーターに互換性が無かったのですが
最近、互換性が取れるようになったそうです。
[ためになった]
管理人 >MIDIと言う規格 うちのピアノ教室ではMIDI作曲のレッスンもしてるんで、 よく耳にはしてますよ。 してるんですが... 詳しくは知りません。^^; また勉強して、いつか記事にしたいですぅ〜。
ヤマハ、カワイ、ローランド、鈴木楽器。大手の楽器メーカーって浜松市に集中しているんですよね。ピアノ教室という音楽教育の末席に身を置く者としては、浜松市には足を向けて寝られません。でも前々から疑問に思ってたんで、この際いろいろ調べてみました。
なぜ幻のピアノなのか?日本に3台しかないから?ニュースからはよくわかりません。そんなわけで、少し探っていきたいと思います。
日本の季節感と死生観を四俳人の六句を元に美しく雄大に描いた楽曲「Mado Kara Mieru」と、作曲者クリストファー・ティンについて、動画を交えながら解説。またCorner Stone Cues版と『Calling All Dawns』版の違いや、グラミー賞受賞の「Baba Yetu」についても。
まだ感想めいたことを書いてなかったので、一応書いとこうと思います。でも、管理人はピアノの素人ですので、演奏レベルとか技術論については完全スルーしますね
ピアノ教室管理人なんて名乗っている割に、ぜんぜん楽譜が読めないわけなんですが、「道行くあの人は楽譜が読めるのか?」というのは、割りと気になってしまうわけです。日本の識譜率、読譜率はどうなんでしょうかね?